吐き気を催しそうな人肉の焼ける臭いの中で晴明と頼子は闘っていた。経基の見た目でも頼子の異常性は明らかだった。全ての肉体的能力が常人離れしており、とても十四の女子には見えなかった。しかし、晴明が押し込まれているのは現実のことだ。
経基には二人の間に割って入ることは不可能のように思えた。秀麗な技で経基以上の手練れであることを示している晴明と、その晴明をして手玉に取っている頼子の、二人の争いは既に人智を遙かに凌駕していた。
 「このっ…」
焦りはないが、思い通りにならないことがこれ程もどかしく感じるとは、晴明には正直驚きであった。
頼子が人心掌握に使ったのは芥子の香である。しかし、この香は決して他者に向けられていただけではない。頼子自身、大量に吸引しているのは明白であり、人外の運動能力を得ている理由はその辺りにあった。
自己保存は生命体の本能である。そのお陰で人は本来秘めている筋力で肉体が破壊されることを防いでいる。もし、脳内に何某の細工を施し、箍が外れたとしたら……。
このまま晴明が一方的に攻め上げられたとしても、時が経てば自然と頼子の肉体は崩壊へと堕ちていく。あとわずかばかりで始まる肉体崩壊まで耐えることさえ出来れば、晴明の勝ちである。しかし……。
 「保つのか、晴明…」
素直な経基の感想だ。流血の事態になっていないのはあくまでも表面上の出来事だ。晴明の衣服を剥がせば無数の痣が黒々と斑を描いていることだろう。経基は自分でも気付かぬうちに太刀の柄を握りしめていた。
重い唐衣をものともしない頼子には限界など微塵も感じ取れなかった。頼子の一撃を紙一重でかわせば反撃も可能かもしれなかったが、焚きしめられた魔香の脅威が晴明の動きを鈍くさせていた。無駄の多い動きで回避運動を繰り返す晴明の体力は徐々に尽きはじめていた。元来、体力が持続する質ではなかった上に、精神的に肉体的に絡み取られては如何な知才とてなす術もなかった。
 「死ねっ、藤原の犬っ」
体勢を崩した晴明の頭を掴んだ頼子は一歩、前に踏み出す。そして自らの脚で晴明の脚を薙ぎ払い、そのままの勢いで地面に叩きつけようとした。
 (死ぬのか)
この時ばかりは晴明も死を覚悟した。力、速度、拍子のどれもが致死性の凶悪性を持ち合わせて晴明の後頭部を砕こうと歓喜の声を上げた。
     『愚朱…』
流血は晴明に訪れることはなく、投げ出され地面に落ちた際に生じた鈍い痛みのみが左肩を襲った。
頼子の右肩を貫き出た銀恍の刃が回転と同時に、骨を削る嫌な音を響かせながら傷口を抉った。血流は迸ることなく、頼子の唐衣を朱に染め上げていく。
 「何て事をしてくれたっ」
晴明は頼子の裡に住まう者のみを祓うつもりでいた。それを経基はあっさりと邪魔をしてくれた。自らの失態を償う手段として、斯様に面倒な段取りを踏んでいたというのに、経基の卑劣な一撃はその全てを水泡に帰するものであった。

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