吐き出された血が頼子の白い美貌に朱華を咲かせている。夕焼け空の様に優しい朱ではなく、狂気に満々ちた赤……。頼子には狂赤こそが相応しい。
「返せ…香を返せ…」
夢遊病者のように呟きを続ける頼子は狂気の虜と化していた。袴だけであることすら気にならぬのか、両腕を振り回しては晴明と経基をその爪で傷つけていく。
晴明に力無くもたれ掛かった経基の顔面からは見ていても判るほどの早さで血の気が失せて行っていた。食いしばった奥歯が擦れて嫌な音を立てたが、今の晴明はその程度のことを気にしている余裕はなかった。
(人が死ぬ…俺のせいで人が死に逝くのか……)
屈辱であると共に、激しい動揺が晴明の全身を揺さぶった。
(こんな事があってたまるものか…俺が助けられただとっ……)
晴明の激昂は心が叫んだ以上に別な理由があった。
己の甘さに腹がたつ。頭でも理解していない激しい感情が晴明を打ち据え、叱咤し、血流を逆転させた。
「退けっ」
意識を失った怪我人を突き飛ばすなど、通常の思考ではないとしか思えない。しかし晴明は躊躇なく大量出血の経基を跳ね飛ばした。
川面を漂う魔香の唐衣を追う頼子を晴明は抱き留めた。容赦なく突き立てられる頼子の爪が、晴明の背中を引き裂く。
一人は魔香の誘惑に、一人は己自身の自尊心のために精神が肉体を超えた獣同士の争いだった。罪悪感も肉体的苦痛も厭わない…感じすらしない獣の饗宴であった。
『獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…』
乱れた血流を正し、頼子の早鐘の如き鼓動に自らのそれを重ね合わせる。意識が飛びそうになる事も、正気を保てなくなる事も、全て押さえ込み、晴明はたった一つ、己が納得できる勝利を掴むことに全力を投じた。
「あぁぁぁぁっ…あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……」
まるで赤子の泣き声のような声を上げ、唐衣に手を伸ばす頼子だが、無情にも魔香の唐衣はその姿を水中に隠し、永久に陽の光を浴びることはなかった。
いつまでも消えた唐衣を求め叫ぶ頼子の口を晴明は自らのそれで封じた。
刹那よりも更にわずかなずれがあるものの、晴明と頼子の鼓動はほぼ同期していた。
『獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨…獨……』
その鼓動も完全なる同期へと昇華していき、完全なる同一を果たしたとき、頼子の全身は力を失った。同時に鬼の影が頼子の躰から剥げ落ちたのが、晴明の目にだけは映った。
「はぁ………なんて面倒臭いんだ、人間って奴は…」
頼子と経基を助け上げた晴明は溜息混じりに一人、洩らした。しかし、その表情は以前と比して冷たくはなかった。この一件がそれまでの自分に足りない何かをもたらした事を、後世となって晴明は懐かしく思ったという。
多数の死者を出したとは言え、ひとまず事件は解決したはずだった。
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