北久保弘之vs.江面久 Round - 4
次への欲望、裏切りの襲撃。
北久保 体も精神も蝕まれてぼろぼろになっていく・・・。でも、だからって、現場から、離れたいとは一回も思ったことないですね。うん。このぼろぼろになっていく現場っていうのは、自分がいる場所なんですよ。だから、どれだけ、体を壊そうが、ぼろぼろの目にあおうが、スタッフから総スカンくらおうが、そういう酷い目にあう現場から、逃げたいと思ったことは一回もないです。
江面 北久保さんとの、仕事っていうのは、むちゃくちゃもう、自分を追いこんでってやるっていうタイプか、ドンちゃん騒ぎか、どっちかですね。うん、あの、次、ドンちゃん騒ぎやりたいんです。ドンちゃん騒ぎモードのヤツ。ちゃんこナベみたいなかんじですよね。おもしろいと思ったもん全部入れちゃうっていう。
北久保 「BLOOD」という作品を経験した後でなければ作れない作品というのを、これから作ろうっていう話は、「BLOOD」の作業中にも江面さんと話をしていたし。コレを経験した後での、次。BLOOD「以上」っていう意味ではなくて、「BLOOD」を経験した上での次作品。単純に、イメージやクオリティーのベクトルが「BLOOD」の延長線上にあるのではなくて、「BLOOD」という経験がなければ出せないバリエーションていう・・・
江面 「BLOOD」の画質っていうか、画面の雰囲気を引きずるっていうのはあんまりやりたくはないんです。
だけど、全然違うドタバタのコメディ作品をやったとしても、「BLOOD」のノウハウって、滅茶苦茶、活かされると思うし。「BLOOD」を経験してないとできないことだし。ふたりともへそ曲がりなもんですからね、周囲の人達に予想される様な事はやりたがらないんですよ。
北久保 実際、「BLOOD」の前に作った「PS版GAME・攻殻機動隊」のオープニングムービーってのは、華やかな色合いの、派手な画面構成の世界ですよね。アレを作った経験が無ければ、実際、「BLOOD」のパイロットの、1分間の映像って作れなかったんです。「PS版・攻殻」のムービーを作ったスタッフが、その次に作った映像です、って、出されれる「BLOOD」の映像っていうのは、あの、めちゃめちゃ色抜けっていうか、全然違う画面。地味で。
江面 うん、違う感じがしますよね。
北久保 雰囲気が、どろーんと・・・
江面 どろーんとしてるし、動きが、過度な回り込みとか、アクションアクションアクションて感じではないですからね。フリーズはしてないけども、止まってる、固定したカメラの感じはありますよね。
北久保 だけど、あのパイロットは、攻殻のオープニングを作った経験がないと、できない。
江面 できなかったですね。
北久保 で、「BLOOD」の一分間のパイロットが無ければ、50分の本編は作れなかったし、50分の本編を作り終えた経験がなければ出来ない映像表現とか演出の作品っていうのが、我々には、出来るはずなんですよね。
江面 そういった意味じゃ、次の映像を作りたくってうずうずはしてるんですよ。みーんなどうせ、「BLOOD」の次に私と北久保さんが組んで作品を作ったら、「BLOOD」の映像の延長線のラインで来ると思ってるでしょうからね。
北久保 たまたま同時期にね、「フ○○○」が製作されてたのが、ちょっとショックなんですよね。いや、なんか、先を越されたなぁ・・・って感じで。ああいう、キャラクター物からの攻め方を、実はもうプランニングしてたんですよ。それで、実際にこういうキャラクターで、こういうシチュエーションを描いてくれっていうのを、すでにデザイナーと打ち合わせして、企画を進めてたんですよ。そしたら、その途中に「○リ○○」が制作発表になって、で、そのキャラがもう、モロカブリだったんですよ。
江面 ある程度、攻め込もうと思ってる人間ていうのは、もし、シンクロしちゃった場合っていうのは、結構深いところでシンクロしちゃうものかもしれないですね。
((と、その「○○○リ」にも原画として名を連ねる江面久は言うのだった。)
北久保 演出をやる時には、攻めないわけにはいかないんですよね、うん。攻めなかったら、演出したことにならないんで。演出家の最低限の仕事って何かっていうと、どんな条件下であれ、面白い作品を作るということなんですよ。それが、興行成績につながったか、つながらなかったかってことは二の次、三の次なんですよ。クオリティが高かったか低かったかっていうのも、二の次、三の次なんです。最終的に、結果が面白けりゃ全てOKっていうのが、演出家が最低限やらなきゃならない仕事なんですよね。
クオリティー(品質)が、ある一定レベル下がったとしても、根本的な面白み自体が失われていないんだったら、自分はちゃんと仕事したことになると思います。ただ、どんなにクオリティが高くても、作品が面白くなかった場合は、あの、自分は仕事していなかった事になっちゃうんですよ。
((でも、本編50分の「BLOOD」。制作日数、2年以上。2年前の自分と2年後の自分が、同じ50分の映像の中に閉じ込められることに、ジレンマはないのか?)
江面 いや、ありますよ。
北久保 それは江面さんだけじゃない。俺にもありますよ。でも、それに関しては、共有のものではないですね。お互い、それぞれ、個人個人別々の課題がある。
江面 表現から技術から、それこそ、アフターエフェクトとかのパラメータの数値の話だとか、ファイルの移動の仕方とか、そういうレベルから、表現の方法のかなり抽象的な問題、発想の仕方の問題とか、全体のシステムの作り方、発想していくためのプロセスの方法だとか、もう、何から何までですね。次で、それを全部一気に、取り入れることが不可能と思うくらい、何から何まで。気持ちとしては、全部取り入れてやっていきたいな、と思うけれども、ほんとに膨大な数の、更新があるんで。本当に拾いきれないくらいなんですよね、ああしたほうが、もっと良くなるだろう、こういう風にしたら、もっと、やりたいことに忠実な画面が、フィルムに定着してくれるんじゃないかっていう、そういう、なんでしょうね、成長みたいな、更新みたいな、ことっていうのは。
北久保 もっとこうしたかったって、いう気持ちは、どんなスタッフであれ、絶対に失っちゃいけないと思うんですよ。その反省の気持ちが、次回作を作る為の原動力になるわけですから。だけど、こうしなければ良かったとか、こんな事やるべきじゃなかった、ていう様な、ネガティブな後悔は絶対にしたくないですね。
江面 こうすればもっと良くなったっていうのは一杯あるんですよ。でも、こうしたからダメになったっていうことはないですね。なんていうのかなぁ。ダメもとでやったことなんて、ひとつもないんで。だから、後悔はないんですよ。ただ、反省があるだけでね。後悔はなくて、反省はありますよ。反省はいくらでもあるんですけど、ああしなきゃ良かったなっていう後悔はないんですよね。
北久保 話がちょっと、演出家の立場から、離れちゃうんですけども、ようするに、そこを整理するのが監督の仕事だと思うんですよ。各スタッフの、クリエイティビティの蛇口の栓をひねって回るのが監督の仕事なんですよ。ひねると、だーっと水が出るじゃないですか。だけど、水量のコントロールをしないといけないんですよ。ほっとくと、だだー――――っっっと、ものっすごい勢いで、みんな大放流を始めるわけで。水道代がとんでもない事になっちゃうんで、閉めて回んなきゃいけないんですよ。ところが、閉められたスタッフ側っていうのは、もっと放出したくてしょうがないんですよね。だけど、蛇口まわして、水量のコントロールをして、止めて回れるのは監督しかいないんですよ。勿論、一口に監督の仕事って言っても、色々な主義の監督がいますから、一概には決めつけられませんけど。例えば、映像作家みたいなスタンスの監督さんだったら、多分違った意見を持つと思いますよ。映像作家タイプの監督さんって、アートの世界に走っちゃって、蛇口大開放する方も多いんで・・・。でも、俺は芸術家の世界には縁の無い人間なんです。
江面 で、なおかつ、蛇口は閉めきっちゃまずいんですよ。だから、すこしだけ、ちょろちょろにするんですけど、流れてるうちに、また、蛇口がゆるんできて、がらがらがらっ、ばかって、噴出が始まるんで、監督はずっとこう、歩き回ってるんでしょうね。まあ、そういうおもしろいソフト(スタッフ)が「BLOOD」には大勢参加していましたし。
北久保 でも実際は、そういう中間管理職的な労働が作品を産むわけでは無いです。例えばさっき江面さんが言ってた様な、作品に載せきれないと思うほど、全ての要素に対する思い入れが大きいっていうところに、作品の輝かしい未来があると思いますけど。
ただ、俺は自分が監督をやる時、演出家として「コレだ!」っていって求めるモノは、そういう風には発想しないですよ。要素を幾つかに絞り込んでるんですよ。「今回の作品はコレとコレです。コレとコレが出来なかったら、この作品はダメになりますが、コレとコレが出来上がってる場合は、他の要素がどんなにダメになっても、この作品は絶対にイキます」って。その蛇口の数とか水量とかっていうのは、作り始める前の段階で明確になってるんです。で、何が何でも、コレだけは守ってください。それを守るためには、どんな事でもします、スタッフに悪い事もします、必要ならば人も騙します、怒りもするし、汚い手口も使うと。ただ、2万とか50万とかじゃなくて、この3っつ、この3っつだけが出来てれば、この作品はイケルんです・・・っていうことを保証するのが、俺の仕事なんです。
(「BLOOD」は? あの「BLOOD」ですら、たった3っつに絞り込めるのか・・・?)
北久保 そのうちの1つが、江面久氏の持つクリエイティビティなんですよ。
だから、俺が監督をやって、I.G が制作して、寺田克也氏がキャラクターデザインをして、黄瀬和哉氏が作画監督をやって、江面さんに画面設計を委ねて、そして多くの優秀なスタッフ達が協力してくれれば、そりゃもう、凄い作品が仕上がるに決まってるですよ。だから、コレとコレとコレが出来てれば、この作品は出来あがったも同然っていうビジョンは、もう3年以上前の話なんですよ。も、その段階で俺のプランニングは終わってるんですよ。
江面 監督と私は、お互いに、パズルの、足りないピース・・・って感じなんですよね。私はね、大俯瞰から見下ろしたビジョンていうのを持てないんですよ。いろんなところから、主人公のプロファイルを私が集めてくるっていうのは、なんか、シナリオを作ってるふうに周りから見えるかもしれないけど、ちょっと違うんですよね。
こういうキャラクターが出てきて、こういうドラマがあって、どういう、スト―リーが展開していくかっていう、中心の光ってる部分っていうのは、私は作れないし、作ろうっっていう気がないんですね、不思議と。その光ってるのはなぜなんだろうっていう、研究者みたいなんですよね。私がもってない中心部分を北久保さん持ってますから。そういう私に欠落してる部分を持ってる人っていうのは、すごく尊敬するし、そういう部分を提示してくれるんだったら、その部分は全部まかせちゃって。で、逆に、手前のものが、薄茶色なのか、薄薄茶色なのかっていう部分っていうのは、北久保さんはイメージはあるのかもしれないけど、実際にってなると、もてあましてしまう・・・っていうところで私を使ってくれてるんですね。
北久保 俺には、何となく、漠然とした勝利のイメージがあるんだよね・・・っていう位のもんです。すると、江面さんは、実際に、その戦争で、こういう風に追い詰めてって、撃沈したいっていうような、具体的なドンパチの、勝利する時の醍醐味みたいなモノの、持ち込みができるんですね。で、お互いの、ポジションの違いがあるだけで、結局、一緒に参加した戦争には勝ってるっていう。
江面 といっても、明確にカテゴリー分けができてるわけではないんですよ。毎日の作業の中で、からみあって、混在となって、進んでって、作業が完成するわけですよね。ま、そこらへんはモノを作ってるときの醍醐味っていうか緊張感っていうか。その緊張感が楽しいんですけどね。それがおもしろいから、やってるんですけどね。
(自分たちで、楽しんで、作品も、面白いね、っていうのは、全部主観・・・? いいのか、それで?)
江面 作品が、面白いっていうのは主観で、たしかに主観で見てはいるけれども、その主観が、周りとどれだけズレてないかっていうのは、それは常に危機管理していて。自分のセンスっていうのがサビないように。
例えば、北久保さんなら、演出家、監督として仕事をやってく以上、他の部分はサビてもいい、刀の鞘の部分はぼろぼろになってもいいけど、刀の刃の部分は、抜いて見ると、きらきら光ってなきゃいけないんですよ。ええ。柄の部分とか紐とかは、手垢で汚れててもですよ、中の刃の部分だけは、ピカピカに光らせとかなきゃいけない。そこの切れ味さえ良ければ、どんなに柄が汚れてても、肉はちゃんと切れるはずだっていう、確証ですからね。だから、私もそこの部分は絶対サビないように。いつまでたっても、磨きつづけなきゃいいけない。置いとくことができないですから。
私らが、面白いと思って、これは、カッコいいだろうって思う絵っていうのは、周りがカッコいいと思ってくれるはずだっていう。それは、毎日そうやって、磨いてるからですよね。あ、こんだけ磨けば大丈夫だろうって、床の間に飾って、2年間も3年間こ放置することはなくて、毎日、見て、サビてないか、チェックしてますからね。そのチェックする作業っていうのは、一生ずーっと 続けなきゃいけない部分ですよね。たとえば、飯くうとか、寝るとかと同じように、日課になっちゃってるんですよ。その日課がヤダって思った瞬間、その人は、監督とかモノを作るところから、どんどんスポイルされていくはずです。
(そして・・・そのサビつきを許さない主観は、「BLOOD THE LAST VAMPIRE」をどう感じているのか・・・)
北久保 何度もスタッフの前で言ってますからね。
(その言葉が聴きたい)
北久保 これで結果が面白くなかったら、自殺もんだって。

-END-

Back
次への欲望、裏切りの襲撃。
北久保弘之vs.江面久 Round - 4

(C)2000 Production I.G/SVW・SCEI・IG PLUS・IPA