晴明が思案に耽ったその対岸に位置する廃寺の中には一枚の仮面が至宝が如く納められていた。堂内を支配する重く甘い空気は、片隅で安らかな寝息をたてる童女から放たれているように思えた。隙間から射し込む西日の線が徐々に細くなるにつれ、匂いは更に濃密になっていった。
大伴頼子は童女らしい無防備さでそこにあった。柔らかな頬には涙の跡もなく、豪奢な唐衣にも乱れ一つ存在しなかった。彼女は自らの意志、少なくとも合意の上でここにいることは誰の目にも明らかだった。
『…琴李…』
きっかけもなく仮面が音をたてた。否、きっかけはあった。堂内に差し込む陽の光が一筋さえ残さず無くなった。たったそれだけだけのことだが頼子の裡に潜む鬼にとってはそれで充分なのだ。
全てが覆される。陽は陰に、有は無に、正は邪に、人は鬼に。
「このたびは 幣もとりあへず たむけ山 紅葉の錦 神のまにまに」
頼子の鈴のような声の中にほんのわずかだが異音が入っていることに気付ける者はいるであろうか。男のように低い声が、頼子の口から発せられた詠には織り込まれていた。
頼子は肩を揺らし、喉の奥で嗤う。その様はもはや実頼に甘えていた時の面影など微塵もない、妖女そのものであった。
頼子は堂の外に集まる気配を敏感に察知していた。その感覚は常人どころか、既に人の領域すら越えてしまっている。音もなく立ち上がった頼子は仮面を付けると、外で待っている下僕の前に姿を現した。
雄叫びにしか聞こえないが、堂外で待つ者達の口から発せられたそれは明らかに歓喜の声だ。下界のどの文字を駆使しても表しきれない声は獣に例えることさえ可愛らしく感じる。鬼の下僕は鬼にしか務まらぬということであろう。
『紗庵…紗庵…紗庵…紗庵…紗庵……』
一定の旋律で踏みしめられる下僕共の脚は金環を打ち鳴らさせ、やがて旋律は戦慄へと転じていった。
「神のまにまに……荒ぶる雷よ、我が意に添いて都を灰燼と帰せ」
頼子は自ら雷神を名乗り、下僕たる雷共は雷神の意に添って都へと殺到した。
「愚かなる朝廷よ、藤原よ……雷公たる我の怒りと無念を存分に味わうが良い」
昨夜と変わらず真成る円を描く月を見上げた雷公・大伴頼子は鬱陶しげに目を細めると、かつてその魂が詠んだ漢詩の一節を詠った。わずか一文字だけ変えて。
「月暗雲重事不須 天従神望豈欺誣」
するとどこから湧き現れたのか、低い暗雲が天を覆い隠した。神仏にすら匹敵するかに思えるその能力を、人の身で防ぎきれるとはとても思えない。
頼子はしずしずと都に向かって歩を進めた。その歩みには一滴の後悔や迷いすら感じ取れなかった。
「燃えよ、燃えよ、燃えよ。権力に取り付かれ、忠臣を放逐した酬い。今こそ思い知るがよい。地獄の業火にて巻かれ死ね」
ただその願い叶えるために雷公は力強く前に足を踏み出す。
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