秋の月が影をより一層深く濃く落とすために、闇に蠢く鬼に気付く者は少なかった。
大路を歩いていた経基が屋敷に忍び込む人影を見たのもただの偶然だ。影は手足に輪冠をつけ、奏でられた楽のように雅な音を発していたが、どう見ても不信人物にしか思えなかった。
「はて…恋の歌を詠むには無粋な輩よ」
後を追うのも一興だが、生憎と経基は好奇心が旺盛な方ではなかった。太刀を帯びてはいるが、それも正義を成すためではなく、ただの飾りだと本人も自覚していた。
仮に物取りであったとして、経基に何が出来ようというのか。稽古では太刀を振るったこともあるが、実際に人を斬ったことのない経基が役に立てるとは思えなかった。
『把馳…』
はぜる音は灯りと熱を伴って経基に知覚された。酩酊感にも似た気怠さが経基を襲うのは、彼の中に流れる血が義務感を喚起しているからだ。
生木の燃える湿った煙の匂いが鼻孔を刺激する。火を消すことと不審者を捕縛することを天秤にかけ、経基は前者を選択した。
経基は相手が誰であっても、争うことを好まなかった。近隣に延焼が及べば多くの人々が焼き出される心配もあった。しかし、それ以上に……。
「暴力沙汰なんて兵部省にでも任せておけば良いのさ」
屋敷の門を潜った経基はそこで運命的な出会いを迎える。屋敷の使役を叱咤し、燃え広がる炎と格闘している青年は照り返しで橙色に染まった横顔が美しかった。
その青年が宮中でも話題に上る安倍晴明と理解するのには瞬き一つの間も必要としなかった。それほどに青年は美しく、堂々とし、王者の風格を備えていたのだ。凡庸なる人々が【鬼の子】【狐の子】と嫉妬の籠もった噂を流布する訳が理解できる思いがした。
「そこの小僧っ。炎に魅入られる程度なら巻かれてしまえ。己も兵なれば力無き者を守るが役であろう」
確かに経基はその美しさ、荒々しさに見とれていたが、それは炎ではなく晴明にであったなど恥ずかしくて言い訳にも出来なかった。
「初対面で小僧呼ばわりとは失敬な輩だな。これでも私は二十一なのだがね」
「そんなこと俺の知ったことか。物見遊山でないのならば手を貸せ」
言い争いをしていても詮無きことなので経基は晴明の言に従った。確かにここで体を動かさないのでは、何も意味がない。
煤にまみれ、大小の火傷を負いつつも思いの外、消火作業は手こずっていた。経基が異常に気付いたのは、幾度となく池の水を汲み、炎に向けて投げ入れてからだった。
濡れた木片は一旦、その身を焦がすことを止めた。しかし、しばらくすると未だ濡れそぼった体のまま炎蛇の顎に囚われ、周囲を照らし始めた。
「これは…」
常世の理を越えた事象に直面し、経基は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
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