年が明ければ、それを境に全ての人が等しく歳を重ねる時代。その冬、かつてない大雪に誰もが屋敷に引きこもる中、一人の童が大路を泳いでいた。
山々から吹き下ろしてくる冷たい風により常から都の冬は厳しいが、天元五年の師走は尋常ではなかった。まもなく新たな年を迎えようという夜、源家の嫡男である頼光は怪翁と名高き安倍晴明からの呼び出しを受けていた。
 「 …何もこの様な夜に… 」
会ったこともない老翁に愚痴てみても詮なきことと知りながら、つい不満が口をついてしまうのはまだ幼さの残る貌を見るにつけ、致し方なしと思えた。同い年の童と比して短身の為でもあるが、自らの腰よりも深い積雪を、まるで泳ぐように掻き分けねばならなかったのは骨が折れる。晴れの昼間であればわずかばかりの時であったものが、幾往復分の時間を浪費したであろうか。全身が濡れそぼっているのは雪のせいなのか汗のせいなのか、既にわからなくなっていた。
訪れた屋敷では頼光を呼び寄せた当の本人が南庇で閑かに座していた。ずぶ濡れの頼光が訪れても微動だにしないその様は、ただ雪を愛でていただけなのではないかと思えた。
濡れた着衣の代わりにと使役に差し出された直衣は、この屋敷に童がいないためであろう、大きさが頼光に全くあっておらず、居住まいが正しづらい感があった。
 ( 裏地が浅葱か…晴明殿の直衣…? )
幾日も経たぬうちに頼光も十三となる。まだ童の面影を多分に残す頼光が、稀代の陰陽師とした名を馳せる安倍晴明と向き合い、平静を保てるわけもなかった。頼光が微塵も動じていないように見受けられるのは、蛇に睨まれた蛙と同じ事だ。
暗黒と静寂が支配する中で真闇の訪れを阻むかのように存在する油灯は儚く揺らぎ、刻が過ぎている事実を頼光に伝えた。
 ( わざわざこの様な夜に呼び出して何の用向きなのだろう )
既に何度も心に去来した言葉を飲み込み、童は眼前の怪翁に視線を注ぎ続けた。
刻み込まれた深い皺とわずかに黒筋の見える白髪。まだ五十に満たない齢だが、刻み込まれた年輪は常人の比ではなかった。唯一、湖底を思わせる黒瞳のみが溢れんばかりの生気を放ち、この者を現世に顕現せしめていた。
       『 御…音 』
何処からか重く陰鬱な音が聞こえてきた気がした。単に気のせいなのか、それともただの耳鳴りなのかも知れない。
 ( 安倍の翁は常世と現世を行き来する鬼神と噂されていたか… )
頼光は嫌なことを思い出したと後悔した。ただの噂話がここまで気になってしまうのは、やはり目の前に鎮座する老翁の放つ雰囲気に飲まれているからであろう。
 ( 何を考えているのだろう…この御方は )
逃げ出したい思いに駆られそうになるが、晴明の瞳は一線に頼光を射抜き、頼光に身じろぎすることすら許さなかった。
       『 …御…音……轟…音…… 』
音が徐々に近づき頼光を包み込もうとしているかのように思えた。
意識だけが底のない奈落に落ちていくような感覚が襲い来る。晴明の姿だけははっきりと視認できるにも関わらず、周囲の闇に微かに残る濃淡が揺らぎ、渦を巻き、浮遊感を伴った永遠の落下感を頼光に与えた。それが純粋な恐怖であることを覚るには頼光は未だ幼く、今しばらく時を必要とした。
晴明の背後に渦巻く闇が様々なものを形作り、浮かび上がらせては消えゆく。それは時に人であったり幽鬼であったりもしたような気がした。その様を頼光はただじっと見つめ続けた。もしかすると闇に浮かぶそれは、単に幻であったかもしれないが頼光にそれを知る術は何一つとして存在しなかった。
そして、頼光が永遠とも一瞬ともしれぬ幻視行から帰還した時、周囲は眩しいほどの光に包まれていた。雪は止み、純白の雪波に陽光が反射して辺り一面が白く煌めいている。
頼光は雪が止んだことも、夜が明けたことも、晴明の姿が消えたことすらも気付かなかった。あの真闇の中の出来事が夢であったとは頼光には考え難かった。
 ( この純白の光景もまた夢幻なのか…やはり安倍の怪翁が人と狐の子という噂は真実なのかもしれぬ )
握った掌がじっとりと汗ばんでいることに気付かないほど、この時の頼光には余裕がなかった。未だ童の時とはいえ、武の家に産まれた者として致命的な隙をつくっていた事実を許せるほどに、頼光の心は幼くなかった。
 「 源殿、如何なされた? 」
人の良さそうな老使役に声をかけられ頼光は現実に引き戻された。そして恥じた。若さ故の気負いと潔癖が、自己の怠慢を許せなかったのだ。
 「 輿を用意させました故… 」
老使役は慇懃に腰を折りながら早々に立ち去ることを促す。とけやらぬ想いに去り難さを覚えつつも、頼光には老使役の言に従うだけしか採るべき術はなかった。流石に輿に乗ることだけは、はばかれたために辞退し、再び腰ほどもの積雪に挑んだ。
疑問と戸惑い、そして己への怒りと苛立ちを頼光はただ、降り積もった雪にぶつけた。

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