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月が移ろい、紅白の梅花を愛でる季節、頼光は馬上の人であった。暖かくなり、春めいた様相にも頼光の心は晴れなかった。
頼光の父・満仲へ晴明よりの使者が訪れたのは三日ばかり前のことだ。会談は当事者を交えずに行われ、頼光はこうして安倍邸に向かっている。
( 東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな…か )
遙か西の地へ赴任し、永遠に都に帰ることのなかった歌人の詩に込められた寂しさが、今の頼光にはよく解った。左遷と言っても差し支えのない仕打ちを受け西国に散った歌人と、安倍晴明の屋敷に住まう事を命ぜられた自分を、頼光はつい重ねてしまう。
「 父上は何をお考えか… 」
独り、身の不遇を嘆いてみても詮なきことと承知しているつもりでも、未だ頼光は大人になりきれているわけではない。一抹の寂しさがないとは言い切れない。
せめてもの慰めは涼やかな風と梅の香だけだった。
「 土御門の鬼屋敷にいかれるそうだぞ… 」
「 源の御嫡子様がか…? 」
「 まだお若いのに不憫な… 」
「 安倍の翁といえ、手荒な真似は致すまい 」
「 いや、しかし… 」
馬上からも路往く人々の、好奇心を満たすためだけの身勝手な話し声が耳に入る。嫌味なほどに不吉なことしか聞こえてこないが、それが都の人々の不安を代弁しているようで、頼光は胸が痛んだ。
白い梅の花片がふわりと馬の鬣に舞い降りた。一枚だけが何故か頼光の気を引いた。誘われるままに手を伸ばした頼光をまるでからかうかのように、花片は柔らかに風に乗り碧空に消えていった。
花片を見送る頼光はしばし動けずにいた。その瞳はどこか遠くを見つめているようで、荷を運ぶ使役人は幼き主に声をかけることが出来ずにいた。
約束の刻限をわずかに遅れて着いた安倍邸では、晴明が以前と同じ場所で座して頼光を待っていた。緊張の面持ちで対した頼光は困惑した。肩すかしを喰らったと言い換えても良い。
深い皺を刻んだ顔一面に柔和な笑みを浮かべ、細めた目はその皺の一つのようにも見えた。
( この好々爺が以前にお会いした晴明殿なのか? )
表情は隠したつもりだったが晴明には全てが筒抜けであった。
「 儂が笑っておるのが不思議なようじゃな。しかし、儂とて嬉しければ笑うし腹が立てば怒りもする。…おかしいかの? 」
「 いえ、そのようなことは… 」
頼光はその優しげな貌に嘘はないと思えた。
「 御翁は何故に私を召されたのでしょうか? 」
「 大樹とは園の中にあっては決して益をもたらすものではない。むしろ疫をもたらす事が多い 」
頼光には晴明の語る言葉の真意が理解できなかった。そもそもにこれは自分が発した質問に対する答えなのかすら判別がつかないでいた。
「 並の樹を切り倒すには足りる刃でも、大樹を倒すには至らず、切り倒すにはそれに見合った斧を用いねば、様々なものをいたずらに浪費するのみ 」
いつしか晴明の貌からは笑みが消えさっていた。
全身の肌が泡立つのがわかる。そこにいるのは紛れもなく、稀代の陰陽師と謳われた安倍晴明だと頼光は思い知らされた気がした。
「 御翁は何をお考えなのですか… 」
恐怖にも似た陶酔感が頼光の背を駆け登った。
頼光は気付いている。目の前のにいる心穏やかな老人を装った怪翁は、途方もなく危険であることに。それでいて引きつけられてしまうのは、恐らく自分の中にも晴明に根幹を同じくする鬼が住もうているからだ。
「 人の心には鬼が住んでいる。それは老若男女、見目の美醜、身分の貴賤に関わりなく皆が等しく住まわせておる 」
頼光の心中を読んだかの如く晴明は言葉を紡いだ。
「 私の中にも…でございますか? 」
「 力強き者はまたその裡に住まう鬼も強い。己を律することが出来ねば喰らわれるぞ 」
脅しではないことは理解できた。安倍晴明の身体に刻まれた年輪は、単に時を多く重ねただけではなく、裡なる鬼との葛藤の激しさを証明するものに他ならないと気付いたからだ。
「 ここに来る道すがら、不思議なものを見ました 」
逃げ出したいほどの恐怖に早まる鼓動とは裏腹に、何故か頼光の表層は落ち着き払って見えた。恐怖に感応して頼光の裡から溢れ来る鬼気はやはり、陰陽師・安倍晴明に近しい何かを感じずにはいられない。
「 風の中に隻腕の鎧武者がたたずんでいるのです。しかし、何より異形なのは私を見据える瞳の色が片や黒であるのに、残りは黄金であったこと。あれは私の裡に潜む鬼なのでしょうか 」
「 裡に潜みし鬼とは己の心の弱き部分。その姿もまた己自身に他ならない。…隻腕の武者とは、全く別の…そう、お主と深い縁で結ばれた何者やも知れぬな 」
頼光の心に縁という一語が浸み入っていく。それは晴明の人としての深さだけではなく、頼光の裡なる資質の賜物でもあった。
( そうか…。私がここで暮らすとは、そういう意味なのだな )
どのように説明しても誰にも理解されないであろう心情が頼光の中にあった。例えそれが独り善がりな納得であっても、頼光はそれで正しいと思えた。
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