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「母上、母上っ」
永観元年の暑い夏の日、碓井貞光の母・昌子は家族全員に看取られて逝った。元々、身体の強い方ではなかったが、それを考慮しても急逝であったと思える。
山々に囲まれた田舎ではあるが、この地を治める者の人柄がうかがえる、のどかな土地だった。碓井の当主である道貞は、文武に光るところの何一つない平凡な男ではあったが、優しく朴訥で、住民から慕われる良い領主であり、良い父であった。
近隣の民も均しく領主の奥方の死を悲しみ、貞光は民の優しい心根を救いだと感じた。
使役人達は、まだ幼い兄弟が悲しみの余り床に伏せはしないかと心を痛めたが、それは杞憂に終わった。嫡男である貞光が弟妹を前に気丈に振る舞い、励ましていたからだ。使役人達は未だ十一歳の貞光の優しさに更に胸を締め付けられる思いがした。
池の畔に腰を下ろし、水面に映る自分の姿を見て、彩子は母親に似ている自分が悲しくなった。母の形見である櫛が小さな両手の中にあることも、哀しい記憶に縛られる要因となっていた。黒目がちで美しい瞳は潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうに揺れていた。兄・貞光と一つしか違わないのに、どうして自分はこんなにも頼りなげなのだろうと自己嫌悪も手伝って、自分の殻に閉じこもりがちになってしまう。
「彩子、兼貞と貞時を見なかったか?」
後ろから声をかけられ内心驚いているが、普段から大人しい性格な上、反応が静かなために余計に落ち着いて見える。
彩子は首を横に振って兄に答えてから、気になっている問題を口にした。
「…兄上。先程、尾鷲の品子様がいらしておりました」
「品子叔母が?」
「母上の葬儀にもいらっしゃらなかった方が今更何用でしょう?」
品子は昌子の妹にあたり、数年前に夫を亡くし実家の尾鷲に戻っていた。容姿の良く似た姉妹であったが、互いに相容れない性分を持ち合わせていたのか、仲が良かったとは言い難かった。
彩子は品子とは数える程しか会ったことはなかったが、あまり好きではなかった。それが露骨に表情に出ていたのだろう。
「そういう貌を叔母上に見せるなよ。どうせ幾日もおられず帰られるさ」
「だと良いのですが…」
得てして嫌な思いというのは現実になりやすい。品子はそのまま碓井の家に居続け、昌子の喪が明けると同時に道貞の正妻へとおさまった。
貞光と彩子にとって衝撃だったのは、父の再婚があまりにも早く、そして何よりも相手が品子であったことだ。
継母は兼貞と貞時を本当の子供のように扱った。三歳と二歳の二人の弟はすぐに品子に懐いた。しかし、実母と継母の違いがわかってしまう年齢の貞光と彩子は、そう簡単ではなく、品子が幼弟を飼い慣らしているように見えた。
それでも家長の決めたことには従うのがこの時代の常だ。二人とも人の目のあるところでは品子を母として無難な家族を演じた。
その反動からか、貞光と彩子はよく二人だけで屋敷を離れた。特に仲の良い兄妹であったため、二人の行動を疑問に思う者さえいなかった。しかし、日が暮れるまで帰ってこない二人が、一体何処に行って何をしているのかを知る者は皆無だった。
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