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■上杉景虎 うえすぎかげとら
→ex: 北条氏康
→ex: 北条幻庵
→ex: 家督相続争いの戦
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天文二十三年(1554)~天正七年(1579*)
*生年は天文二十一年(1552)とも言われる。
三郎。北条氏康八男。北条幻庵養子。上杉謙信養子。幼名・西童。母は瑞渓院。夫人は北条長綱女、長尾政景女。子は道満丸。
相次いで息子を亡くした北条幻庵の元に跡継ぎの婿養子として迎えられる。その翌年、前年より北条氏康と上杉謙信の間で交渉されていた「越相同盟」が、永禄十二(1569)年閏五月三日に成立。元亀元年(1570)三月、柿崎城主柿崎景家の子晴家と鉢形城にて交換され、上杉謙信の下に人質として赴き養子となる。当初、兄氏政の三男が人質として予定されていたが、あまりに幼かったため、三郎景虎に変更となった。上杉氏の養子となった後、謙信の前名「景虎」を与えられ、謙信の姪を妻に迎え、翌年元亀二年(1571)春、道満丸が誕生するが、元亀三年(1572)越相同盟破棄。小田原に返されることなくそのまま越後に残る。
天正六年(1578)謙信の死後、同じ養子の上杉喜平次景勝との間に家督争いの戦が勃発。これが世に言う「御館の乱」であり越後を二分する動乱に発展する。初め北条氏、武田氏の支援を受けた景虎に状況は有利であったが、後に、武田氏が景勝方についたことから劣勢となる。雪で小田原からの援軍もままならず、天正七年(1579)三月十七日、御館が落ち、和議仲裁に向かった上杉憲政と長男で九歳の道満丸が殺害される。同三月二十四日鮫ヶ尾城(新潟県新井市)で、城主堀江宗親の謀反に遭って自害。享年26歳。「北越軍記」にこの際の記述がみられるので次に記す。「三郎景虎切腹なり。三郎御験は上条家人毛蓑興十郎取りしかも実見に入るを不便なりとて、直ちに常安寺に葬送す。」この常安寺は栃尾市にあるが景虎の墓はないという。
法名・「比光正信大善定門」「徳源院殿要山浄玄大居士」
最近、これまで長らく同一人物とされてきた北条氏秀とは別人であることが明らかになった。また、武田信玄養子説は江戸後期の軍記物「関八州古戦録」だけにその記述がみられ、他史料では確認できないため、昨今では、軍記物の作者による創作との説も(「炎の蜃気楼」は、武田養子説に基づいて描かれている)。
眉目秀麗であるとされ、「関八州古戦録」には景虎を題材にした戯れ歌「武田の三郎殿と一夜契らば、梨地の鞍召すと泣いて御座るべな、辛労でありもすべい」が記されている。
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■直江信綱 なおえのぶつな
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? ~天正九年(1581)
上杉景勝政権の初期執政。大和守。与兵衛。上杉謙信家臣・与板城主直江大和守実綱(景綱)の娘・お船の方の婿養子として直江家に入り、信綱を名乗る。
総社長尾家出身で長尾景定の次男の説と、長尾上総守顕景(総社の支流高津長尾家)の子・景考という説があり、出身身元については不明な点が多い。
御館の乱で上杉景勝方に属して活躍したが、天正九年(1581年)九月一日、論功行賞に不満をもった毛利(安田)秀広と山崎秀仙の私闘に巻き込まれ、春日山城内において秀広に殺された。信綱には実子がなく(一説に、子がいたが、父親の死後出家して高野山に行ったとも)、景勝は樋口与六(のちの直江兼続)をお船の方とめとわさせて家督を継がせた。
戒名 香山院殿徳岩盛公大居士
(総社長尾氏とは、上野国総社(群馬県前橋市)を本拠とした長尾氏の一門(四家からなる)で、忠景から総社を名乗る。上杉家の家宰として永享の乱・結城合戦で活躍。)
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■柿崎晴家 かきざきはるいえ
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?~天正六年(1578)?
上杉謙信の家臣。和泉守。家憲。左衛門大夫。中頸城郡柿崎城主。和泉守景家の子。謙信と北条氏康との越相同盟締結時、北条方から養子(後の景虎)を迎える代わりに小田原へ赴いた。越相同盟破棄後、越後に返されていたが、天正六年(1578)三月十四日、謙信死去の翌日に景勝派に殺害されたとも、天正三年に織田内通の疑いにより誅されたともいわれており不明。
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■色部勝長 いろべかつなが
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?~永禄十一年(1568)
上杉謙信の家臣。修理進。越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。遠江守憲長の子。永禄四年(1561)の川中島合戦の際、武田の飯富隊に包囲されて苦戦に陥った柿崎隊を、飯富隊の側面から切りくずして敗走させ、謙信から「血染めの感状」を賜る(この感状は現存する)。勇猛な武将であったが、永禄十一年(1568)、謀反した本庄繁長の籠もる本庄城攻囲中に繁長の夜討ちを受けて戦死。病没とも言われる。
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■安田長秀 やすだながひで
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?~天正十三年(1585*)
*文禄元年(1592)死去説も
上杉謙信・景勝の家臣。治部少輔。越後守護上杉定実より安田庄を与えられる。越後北蒲原郡の国人で、同安田城主(北蒲原郡安田町)。越後揚北(あがきた)衆の一人。謙信の側近として数々の合戦で戦功をあげる。永禄四年(1561)の川中島合戦において、信玄の嫡子・義信の軍を追い詰めるなど抜群の戦功により、謙信から「血染めの感状」を賜った(この感状は現存する)。御館の乱の際には景勝側につき軍功をあげ、加増を受けた。 天正一三(1585)年四月一六日、新発田征伐の陣中で病没。
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■第六天魔王 だいろくてんまおう
→ex: 織田信長
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第六天に住む天魔の長。別名「他化自在天王」。人心に「無慈悲」「残忍」となって顕れる。正法に敵対し、仏道修行の障害となり、成仏を妨げる。第六天とは、六層に分かれた天界の最上階に位置し、そこの住人(天魔)は、全ての快楽・欲望を手に入れることができ、また、欲を通して人を自在に操るとされる。
元亀三年、武田信玄西上の際、信玄が、織田信長への書状の中で「天台座主沙門信玄」と署名したのに対し、信長は「第六天魔王信長」と署名した返書を送った。
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■家督相続争いの戦 かとくそうぞくあらそいのいくさ
→ex: 上杉景虎
→ex: 上杉景勝
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「御館の乱」(天正六年(1578)~天正九年(1581))のこと。
越後・上杉家にて謙信の死後、上杉景虎と同じ養子である上杉景勝との間に起きた争い。
景虎自害により、景勝の勝利となり家督を継ぐ。しかし、景虎の死後も越後各地では戦闘が続き、結局、この三年に渡る内乱は、謙信が築きあげた勢力を大きく後退させる結果に繋がった。
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■上杉景勝 うえすぎかげかつ
→ex: 家督相続争いの戦
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弘治元年(1555)~元和九年(1623)
弘治元年(1555)11月27日越後上田で生まれる。坂戸城主長尾政景の次男。母は仙桃院(上杉謙信の姉)。正室:武田信玄の娘菊姫。喜平次顕景 弾正少弼 権中納言 参議。幼名卯松。
永禄七年(1564)七月五日、父政景の死後、上杉謙信の養子となる。謙信の死後、同じ養子の景虎と家督を争い(御館の乱)、上杉家を継ぐ。越後春日山城に住む。後、上・中越の諸豪族をおさえ、執政直江兼続とともに支配体制を確立。武田氏と結んで信長に敵対したが、天正11年(1583)、豊臣秀吉に臣従して越後を統一。小田原征伐、文禄の朝鮮の役に参戦。秀吉亡き後五大老に列し、会津120万石を受封、会津若松城に入った。石田三成と結んで挙兵、徳川家康と争うが、主戦場関ヶ原の敗北により降伏。本来、領地没収となっても仕方のないところ、直江兼続による政治工作・情勢判断により、米沢30万石に移封された。大阪冬の陣、夏の陣には、徳川方として出兵。領内法制の整備や米沢城下町の建設に努め、米沢藩の藩祖として藩風の基礎を作った。元和九年(1623)三月二十日米沢で没する。69歳。寡黙な質で、生涯に見せた笑顔は一度きりといわれる。しかし養父謙信に劣らない武将で、その戦場での用兵はきわめて巧みであった。法名 覚山院殿空山宗心大居士。
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■北条氏康 ほうじょううじやす
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永正十二年(1515)~元亀二年(1571)
小田原北条氏三代当主。新九郎・相模守・左京大夫。北条氏綱の子。母は伊豆の地侍朝倉氏の娘。夫人は今川氏親の娘瑞渓院(氏康には十五人の子があるが、そのうちの十二人を生む)。天文十年(1542年)家督を継ぐ。天文十五年(1547年)、武蔵河越城にて敵の10分の1の兵力で管領上杉軍を撃破。その後、武田信玄、上杉謙信、今川義元と渡り合いながら関東の殆どを平定することに成功。顔に向こう傷二筋・身に刀傷七ヶ所の傷があり、俗に「氏康傷」と呼ばれた。検地、通貨統一、税制改革、所領役帳の作成など、民政においても能力を発揮。支城制の整備により領内の支配を強化、北条氏の支配基盤を確固たるものにし、後北条家の黄金期を気づいた文武兼備の名将。
戦国の世において信じがたいことだが、後北条五代約百年の間、身内による内訌は無かった。氏康は八男をもっていたが、その中でだれも相続権を争おうとはしなかった。また、氏康から三郎(後の上杉景虎)にあてた飲酒に関する訓戒の手紙が現存している。
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■北条幻庵 ほうじょうげんあん
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明応二年(*1493)~天正十七年(1589)(*生年は1504~10頃とも)
北条家五代に渡って仕えた一族の長老的存在。北条早雲の三男で氏綱の弟。箱根権現別当金剛王院主。長綱。宗哲。幼名菊寿丸。母は葛山備中守の娘栖徳寺殿。箱根権現に入寺、のちに京の三井寺で修行。箱根権現別当四十世を継いだ。茶の湯連歌弓馬の術その他諸芸に通じながら外交に活躍した知勇兼備の人。北条氏康の娘にもたせた礼式作法の心得書「北条幻庵覚書」は江戸時代にも手習い本として使われた。天正十七(1589)年十一月一日、97歳で大往生を遂げたが、当時の寿命から見ると、驚異的な長寿である。箱根早雲寺には、幻庵作庭と伝えられる禅宗式の枯山水庭園が現存する。
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■森蘭丸 もりらんまる
→ex: 織田信長
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永禄八年(1565)~天正十年(1582)
織田信長の近習。信長から「長」の字を賜り、長定と名乗る。美濃国金山(兼山)生まれ。織田家家臣美濃金山城主森可成の三男。母親は可成の室(後の妙向尼)。13歳のときに織田信長の元へ仕官。小姓を務め、特に取次ぎ役として重用される。天正十年正月(1582)、伊勢大神宮の遷宮に奉行として参列、同三月には十八歳の若さで美濃岩村城五万石の城主となる。その三ヵ月後、本能寺の変が起き、弟達とともに最後まで信長の側で奮戦、十八歳で討死した。
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■高坂弾正 こうさかだんじょう
→ex: 武田信玄
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大永七年(1527)~天正六年(1578)
昌信。弾正忠。原姓は春日氏。源助。晴久。虎綱。武田二十四将の一人。甲斐石和の豪農春日大隅の子。子は高坂源五郎昌澄。武田信玄の奥近習上がりの重臣で、信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。永禄四年(1561)の川中島の合戦で、妻女山に陣を置く上杉を衝く別働隊が組織されたがその指揮をとったのが高坂であった。また、戦の後、川中島に残るおびただしい戦死者の屍を敵味方無く手厚く葬り戦場を浄めたのも高坂であった。永禄十二(1569)年信玄が小田原城を攻めた際、高坂は無謀を説き、信玄は退却するが、帰途の三増峠で北条軍を破った。信玄が高坂を呼びこの勝ちを何と見るかと問うと、「ケガの功名でござります」と答えたという。
東京大学史料編纂所に信玄が源助(高坂)に宛てた手紙が現存し、その内容は、信玄の謝罪文と起請文。信玄公が源助以外に浮気をしたらしく、怒った源助をなだめようと書いたもの。
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