濃密で甘い匂いが隙間だらけの廃寺の中に充満していた。
格子の向こうには真円を描いた月が煌々と輝きを放ち、星々ですら月光の奔流の中に飲まれ掻き消されている。
鴨川の流れまで聞こえそうなほど、ここは音がなかった。牛車に繋がれた牛の身じろぎも、供にした使役達の息遣いも聞こえない。本来であれば鈴虫の一匹でも楽を奏でていそうなものだが…。そう、不自然なまでに音のない世界が現出していた。
廃寺に設えられた燈台の灯りの中で二人の男女が重なりあうように寄り添う姿は、どこか退廃感を覚えさせた。逢瀬を好む都人、わけても公卿にしては不自然さを感じさせたのは、そもそも、彼らのように高貴を名乗るものが、如何に逢瀬を楽しむためとはいえ洛外に出るなど考えられなかったからだ。何か特別な理由でもない限りは。
 「実頼様……」
大伴頼子は甘い吐息に乗せて愛しい男の名を呼んだ。白い肌は油灯に照らされ、かすかに橙色に染まっていた。潤んだ頼子の瞳は確実に藤原実頼の心を絡め取り、自らの元に引き寄せていった。
もはや五十一を迎えた実頼と未だ十四の頼子という取り合わせは奇妙ではあったが、この享楽に狂った国では有り得ない話しではない。それこそ都の堕落を体現していると言って良いかもしれない。
 「実頼様……。私、怖うございます。今に都がなくなりはしないかと…とても不安なのでございます」
実朝の袖を握る頼子の小さな手は小刻みに震えていた。実朝はそうすることで頼子の震えが止まると信じているのだろう、娘の小さな身体を包み込むように抱き寄せた。
燈台の油が
      『蒔蒔…』
と音をたてて焦げた。
壁に投影された二人分の影が揺らぎ、堂内の甘く重い空気が流されていることを証明して見せた。
時が動き出す。
未だ抱き合っている頼子の口の端が吊り上がった。優しい翁の心遣いを喜んでではなく、愚かな為政者を騙し込んだ嘲笑に。

前頁へ 次頁へ

(C)2001 IG PLUS/SVW