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屋敷に点在する彩子の面影を貞光は見ない振りをした。後ろめたさが針の筵となって責め立てることから逃げ出したのだ。
それでも少しずつ孤独は忍び寄り、貞光は恐れ、幾つも眠れぬ夜を過ごした。重くのしかかる不安が貞光から気力も体力も奪い去り、やがて死という安息を招く。
「貞光っ、貞光は居らぬかっ」
道貞から貞光を呼ぶことは久しくなかったことだ。貞光は近頃、父が多用している香の匂いが嫌いで、母屋には近づかぬようにしていたが、呼ばれたとあっては従わぬ訳にもいかない。
「貞光、酒を買ってこい。あと鱒を釣ってまいれ」
「…はい」
不条理な命であった。酒を買いに行けと言うのであれば買いにも行こう。しかし、ただでさえ山奥に位置する碓井の領で魚は貴重である上に、鱒は夏の魚だ。今の時期に手に入るはずもない。
貞光が父の難題を聞き入れたのは実母・昌子が急逝してから道貞の言動が狂い始めたことにあった。新たな妻を娶ろうと、心の傷がそう簡単に癒えるものではあるまいと、そう解釈することで、父の凶行に目を閉じることにしていたのだ。
ひとまず酒だけでもと考え、馬に跨り酒蔵のある金剰の領に向かう。兼貞の様子をうかがうのも悪くはない。馬で走ることも、金剰や兼貞に会うことも、今の鬱屈した気分を少しでも紛れわしてくれるだろう。そんな些細なことにすら、すがらずにはおれないのが現在の貞光の心だった。
ところどころ雪の見える山道を駆け、逸る気持ちを抑え、辿り着いた金剰の領は眩しかった。碓井と同じ田舎の領地だがどこか活気があるように見受けられた。かつて、それも遠くない過去に碓井も同じように活気があったことに貞光が気付けないでいるのは、陰に落ちた今の心情では致し方ないように思える。
「あれ…そこの御方、もしや兼貞様の御兄様じゃございませんか」
不意にかけられた声は見知らぬ男のものだった。男は嬉しそうに笑うと、口を開いた。
「やぁ、お懐かしゅうございます。こんなに立派になられて、碓井の大旦那様もさぞ御安心なさっておられるでしょう。儂等、金剰の者も貞光様の弟君が後をお継ぎになられるのであればと兼貞様には期待しております」
男の話しぶりから推測するには、どうやら貞光はこの男と面識があるらしい。記憶の糸をいくら手繰ってみても思い出せない。その間にも貞光の知らない碓井のことを次々と語り、軽い驚きが貞光の心を満たしていった。
「そう言えば、大旦那様はどうして彩子様にあんな酷い仕打ちをなさったのでございますか」
久しぶりに聞いた彩子の名は、貞光の不安を駆り立てるために現れたように思えた。貞光は早鐘のように打ち鳴らされる心の臓を、目の前の男に覚られぬように平静を装った。
「どうしてそう思った」
「そりゃぁ、夜発として売ったなんて聞けば…」
男が言葉を濁したのは貞光を気遣ってのことではない。貞光が烈火のような怒りを相貌に顕わしていたからに他ならない。
身体が内側から弾けるのではないかと思えるほどに心が痛んだ。否、それはもはや魂の痛みだ。
(判っていた)
(彩子が決して幸せな道を歩んでないことは判っていた)
(それでも無知を理由に気付かない振りをしたのは自分だ)
(だからこれは罰だ)
溢れ出る涙を貞光は嫌悪した。そんな資格など自分にはない。
(馬はある。金も少しだがある…あの屋敷にはもう、戻れない)
誰が彩子を売ったのか。そんなことは彩子を捜し出すことに比べれば、無いに等しいほど些末なことだ。だから貞光は馬を走らせ、全国を巡ってでも彩子を救い出す道を選んだのだ。
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