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永観二年の夏、箱根は芦ノ湖北端に碓井貞光と愛馬の姿はあった。
仕立ての良い直衣も、半年も経てば薄汚れた襤褸になる。衣から除く焼けた肌と引き締まった筋肉も相まって今の貞光の姿は碓井の屋敷にいた頃の面影はなかった。
一糸も纏わぬ姿で水面に浮かぶと心が安らいだ。このまま自分が無くなっていきそうな甘美な一時は幼子のはしゃぎ声で打ち砕かれた。
「姫、はやくはやく」
「そんなに急がなくとも、夕刻まではまだ時間がありましょう」
一気に現実に引き戻された貞光は一旦水中に潜ると岸に向かって泳いだ。一日でも早く彩子を見つけだしたいと願う自分が、相模の国まで来ていつまでも遊んでいる訳にはいかない。ある意味では声の主に感謝してさえいた。
濡れた身体のまま直衣を羽織り、馬に跨った視線の先に二人連れの童の姿が見えた。恐らく先の声はこの二人のものだろうと貞光は目星をつけた。
逸る気持ちが抑えられないのか、小さな童は娘の手を引っ張り今にも走り出さんばかりだ。困ったように微笑む娘は天女の生まれ変わりにも見えたが、貞光が目を奪われたのはその美貌のせいばかりではなかった。
(何だ…あの娘…)
貞光は背筋が泡立つように痺れる感覚に襲われた。恐怖と快楽が交互に駆け上がり、貞光の全身に広がっていく。
「この馬は其方の馬か」
声変わりをしていない透明な声に、我に返った貞光は、足下から見上げている童と目が合った。何故か気恥ずかしさを覚えたのは、童の勝ち気な瞳が澄んだ輝きに包まれていたからだけではない。貞光は視線を逸らしてぶっきらぼうに応えた。
「あぁ、そうだが。それが何か」
「うん、この馬、よく其方に懐いているな。大切にせねば罰が当たるぞ」
童からわずかに目を逸らせば娘の姿が視界に入ってきた。豪奢な唐衣ではなかったが、仕立ての良い、気品を漂わせる出で立ちであった。
(彩子と同じ年頃だろうか…もし、あのまま皆が碓井の家にいることが出来れば彩子も、この娘のように美しく着飾っていたのだろうな)
貞光の視線を不審に思ったのか、娘は美しい弧を描く眉をしかめた。切れ長の目が貞光を射殺さんばかりに視殺の矢を投げかける。
「私に何か用か。礼もわきまえぬ下賤の輩がっ」
心の臓が早鐘を鳴らすのは娘の艶やかな音色のせいばかりではなく、貞光の本能が警鐘を打ち鳴らしているからだ。
娘の言っていることは至極真っ当で、本来は反論の余地もない。貞光は動揺を覚られぬよう振る舞うことに懸命になった。
「まったく、二人揃って何て偉そうなんだ。お前らみたいな餓鬼は自分の屋敷に籠もって弦でも爪弾いていろ」
我ながら子供じみた言い様だと、内心苦笑し貞光は馬の腹を蹴った。
もしも、人が未来を知る術を持っていたなら、貞光はこの時に娘の命を絶っていただろう。それほどまでに桜丹姫と名乗る娘は貞光の運命を狂わせていくことになる。
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