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巡り巡って、廻り廻って、いつしか貞光は流離いの目的すら薄らいでいっている自分に気付いていた。そんな自分を許せてしまうほどに、疲れ切っていた。
寛和二年。
貞光が碓井の屋敷を最後に出てから、実に二年半もの月日が経っていた。夏も盛りを過ぎ、しばらくすれば過ごしやすくなるだろう。夜ともなれば虫の美声が響きわたり、眠りを妨げるほどだ。お陰で眠るのはいつも明け方近く、目を覚ますのも陽がわずかに西に向いた頃だった。
火をおこし、釣ったばかりの川魚を焼いて喰らう。料理というにはあまりにも御粗末で、腸を取って焼いただけという御世辞にも旨いとは言えない代物だったが、慣れた。生きていくことに必至で、辛いことが当たり前で、麻痺することを求めた結果がこれだった。
獣の肉が食えれば、今ほど疲労の蓄積もなかったのだが、そうも言っていられない原因があった。一度、捕らえた猪に止めを射そうとしたことがあったが、手が震えてどうして出来なかった。あまりにも優しい気質故と言ってしまえば聞こえは良いが、要は軟弱なだけだ。それは自分でも理解しているし、こればかりはどうしようもないことなので、時に委ねることにしていた。
「さてと…行くとするか」
このまま川沿いにしばらく行けば小さな集落がある。その向こうには安宅の領が拡がり、大きな市もあると聞く。大きな市は人が行き交い、各地の報も集まる。期待と諦めが去来する心を振り切って、水車が水の流れに身を任せ繰り返し回転するように、貞光も惰性に任せまた同じ行為を繰り返す。
一歩脚を踏み込んだ刹那、貞光はその集落を訪れたことを後悔した。
流行病や飢餓から、集落の入口に死体が転がっているのは何度か見てきた。しかし、太刀を突き立てられたものなどは目にしたことはなかった。
「ちっ」
面倒なことに巻き込まれるのは御免被りたい。多少面倒でも迂回するのが得策に思えた貞光は、集落に背を向けた。
「や~ぁ~」
背後から聞こえてきた舌足らずな娘の声に、貞光は大きな溜息を吐いた。
「我ながら…」
女には甘いと思う。本人はそれを決して嫌悪してはいないが、節操の無さに少々呆れていた。
もう一度集落の方を見れば娘が一人、こちらに向かってかけてくる。後ろに数人の荒くれ共を引き連れて、だ。見た目から単純に判断すれば、荒くれ者共は娘を取り押さえようとしているのだろう。
(何て傍迷惑なっ)
自分の身を守るために他人を犠牲にするのは、最も確実な方法の一つだが、貞光は自身を犠牲にするつもりなど更々なかった。娘を助けてやるつもりにはなっていたが、それはあくまでも貞光のやり方でであって、こうして相手を連れてこられると逃げてしまいたくもなる。
「…三人、か。何とかなるとは思うけどな」
貞光は馬から降りると、その場で二度三度軽く跳ねた。野盗相手なら準備はこのくらいで充分だった。
野盗のうちの一人が貞光に気付いて太刀を抜き放つのが見えたが、貞光は慌てる風でもなく、娘が通り過ぎるのを待った。しかし…。
「たすけてっ」
そのまま行き過ぎてくれれば良いものを、娘はよりにもよって抱きついてきた。これでは動きが制限され、助かるものも助からないといった事態になりかねない。
人の集中力は時として肉体の機能を限界以上に引き上げることもある。音が消え、時間の流れが急激にその早さを減じていった。
野盗の太刀は既に引き絞られ、貞光の首を跳ね上げるのを今か今かと待っているようだった。己の身体までゆっくりとしか動かないのはいただけなかった、少なくとも重いとは感じなかった。
抱きつく娘を強引に引き剥がすと、太刀を持つ手に拳を叩き込んだ。相手の指の骨が砕けたのが知覚できた。野盗が取り落とした太刀が地面に突き立つのと、全てが元に戻るのは同時だった。
貞光は一歩踏み込むと野盗の顔面に肘を叩き込み、そのまま勢いを減じることなく残り二人の荒くれ者を無手のまま打ち倒した。
体感した貞光には長く思えたその時も、実際はわずか瞬き三回程度の短い間のことでしかなかった。
身体に溜まった空気を抜くように細く長く息を吐いた貞光の袖に重量がかかった。貞光は追われていた娘のことを、瞬間的に忘れてしまっていた。
近くでよく見てみると、汚れてはいるが整った顔立ちで綺麗な部類ではないかと思われた。何よりも黒目がちな瞳が彩子に似ている気がした。感傷に浸りかけた貞光の気分を、娘は爛漫な笑顔で木っ端微塵に粉砕した。
「ひがんね、こわかったから、たすけてくれてよかった」
いまいち言っていることは良く判らなかったが、感謝の意を表しているのだけは辛うじて理解できた。見た目は貞光とさして変わらない歳に見えるが、声や口調は幼い童女に思える。
「ひがんね、とってもよかったよ」
恐らく、目の前で嬉々として笑っている娘の名はひがんというのだろう。貞光にはそれが、あまり良い名前には思えなかった。ひがんとはつまり、常世の国のことなのであろうから。
肌がざわついた。粘り着くような悪意の視線を幾つも感じるのだ。
五感を駆使して周囲を警戒する。舌は微妙に変化する空気の味を、鼻は臭いを嗅ぎ分ける。どれほどかすかな動きでも目が耳が、そして肌が敏感に察知した。
(さて、困ったな…。一人で何とかなる数でもないぞ)
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