|
人は無いものを求める習性をどうしても捨てることが出来ない。
月が満ちて欠け、もう一度満ちるまでもなく貞光は平穏に飽いていた。今では頼光が別れ際に申し出た誘いを飲んで、都にでも行けば良かったと後悔が芽生え始めていた。頼光が集落を護るためにと差しだした太刀だけが、物悲しげに横たわっている。
ひがんは精神遅滞による知的障害を煩っていた。実際には貞光より四つ年上で今年一八歳なのだというが、振る舞いはどう見ても手の掛かる駄々っ子にしか見えなかった。
「ひがん、あそびたい。さだみつ、なにしてあそぼう」
木陰に横になった貞光の顔を覗き込んだひがんの少しひび割れた唇が、本当に嬉しそうに微笑む。襤褸布を巻いただけのような衣の隙間から白い肌が貞光を誘うようにのぞくが、ひがんの瞳の向こうに彩子の姿を見てしまう貞光は手が出せないでいた。
上空は強い風が舞っているのだろう。刻々と雲が形を変え、流れていく。つい先日までの貞光の生き様を示すように。
「また流れてみるか」
心の奥底に沈んでいる願望が意識せずに口端に乗った。見つかるはずのない彩子を探すために国中を彷徨うのも一興だ。疲れたらまたどこかに腰を下ろせばいい。本人が望むのなら、ひがんを連れて行っても良い。
(独り旅は寂しすぎる)
そう思った刹那、思い出されたのは芦ノ湖岸で出会った童の言葉だった。
『大切にせねば罰が当たるぞ』
自分の勝手な都合で旅を止め、それが愛馬のためと思い込んで野に解き放ったが、全て貞光の我が儘でしかなかった。
「…まさかな」
今更、罰が当たると言われたことを気にしても詮なきことだ。勢い良く立ち上がると貞光は意を決した。
落ち着いたときに持っていたわずかな荷物と頼光から渡された太刀を持つと、貞光は誰にも何も告げずに集落を後にした。ひがんは母鳥の後をついて廻る水鳥の雛のように、貞光の後を追ったが、結局最後の一線を越えることは出来なかった。立ち止まって大声で貞光を呼び止めようと試みるが、届いているはずの声に貞光は答えてくれなかった。
「いやだよ、さだみつ。どこにもいかないで、ひがんとずっといっしょにいてよ」
泣けば貞光が帰ってきてくれると思った。地団駄を踏めば貞光が戻ってきてくれると思った。貞光はひがんの言うことを全部叶えてくれた、助けてくれた、大切にしてくれた。たった一人、ひがんにとって皆と違う人。でも、もう貞光は帰ってこない。
「やだよぉ。…かえってきてよ、さだみつ。ひとりは…いやぁ…」
もう声にならなかった。その場にうずくまることしかできなくなったひがんはしかし、己の無力さを呪うことすら出来ないでいた。いや、哀しいほどの無垢な娘は、そんなことすら思いつけないのだ。
遠ざかる声に後ろ髪を引かれる思いはしたが、貞光は振り返ることなく進んだ。他者を踏みにじって生きてきた自分だ。今更一人増えたところで何も変わらない。ただ、平気でもなかった。辛くないわけではない。胸が痛まぬ訳ではない。
唯一つ。貞光の求めているものは唯一つしかない。回り道をし、選択を誤り、後悔を繰り返しながら貞光は唯一欲するものに向かって進み続ける。
それが貞光に課せられた運命とすれば、なんという悲劇であろう。未来永劫、絶対に手に入らないものを求め続けなければならない人生に何の意味があるというのだろうか。
|
|