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後に永延と年号が改められた年、碓井貞光は大津に足を踏み入れていた。
徒歩での旅は思った以上に移動がきかず、愛馬を手放した自分に腹が立った。一つ所を調べる上では有利に働いたが、やはり体力の消耗は激しく回復に時間を割かれるのはどうにも我慢ならなかった。
初夏の湖に脚を浸し全身の熱を抜き去っていると、不意に生意気な二人連れの顔が思い出された。
「そう言えば、あやつ等とであったのも湖の畔だったか…。くそっ、思い出したら腹が立ってきた」
乱暴に水面を波立たせながら岸に向かうと大股に歩いて旅籠に向かった。
「…良い所だな」
旅籠で宛われた部屋から見える琵琶湖の湖面に、対岸の山々が逆さ写しに描かれ、極楽浄土を思わせた。東の空が徐々に暗くなっていき、空と湖面の色が同じ早さで変化していく。彩子やひがんにもこの素晴らしい光景を見せてやりたいと思う。
飯の出ない安い旅籠だ。腹ごしらえも兼ねて外に出た貞光は、何人かの客取りに声をかけ彩子らしき者がいないか訊いてまわった。
期待などしていない。気に入った娘がいれば一夜限り、肌の温もりを分けてもらえればそれで良かった。大義名分が必要なのは後ろめたさがあるからに他ならない。
「大きな目って言ってもねぇ、こんな商売してる娘…あぁ、思い当たる娘が一人いるよ。ここから御山の方に向かって行った先に琵琶を持った女がいるから、そいつに話せば通してもらえるよ」
「良いのか、そんな事を言えば俺は御前の所の娘を買わなくなるぞ」
皮肉ではなく、純粋に疑問に思った。未だ遊郭のような制度が整っていないこの時代、娘は自分で客を取ることが常で、こうして誰かが客を娘に宛い上前をはねるようになったのはつい最近のことだ。当然、複数の娘を囲う者もいるが大抵はこの男のように娘を一人捕まえておくだけで精一杯の状況だ。
「何、あたしゃあんたの想い人がその娘だったら、そのまま連れて逃げてもらいたいだけですよ。上玉が控えてちゃ、うちの商売も上がったりだからね」
口の端を吊り上げて笑った男の言葉の何処までが本音かは判らなかったが、全てが真実と言うわけでもなさそうだった。貞光は懐から一夜分の賃金を取り出すと男に握らせた。
「恩に着る」
「止しなさいよ。…娘に男を宛うなんてこんな汚い商売してるんですよ、あたしゃ」
「その金があれば今晩一夜だけでも、御前の所の娘は休めるのだろう」
それ以上は押し問答になるだけだ。男は受け取った金を懐にしまい込むと狸寝入りを決め込んだ。
貞光は御山、比叡山のある西を向いて歩を進めた。期待しないように努めているのは、裏切られる恐怖を身に沁みて知っているからだ。
かくして琵琶を抱える女はいた。鋭い目つきで貞光を一瞥すると、一弦弾いた。
「兄さん。買うのかい、買わないのかい」
続いてもう一弦弾く。
「御前さんを訪ねに来る男で、金を払わない者などいるのか」
商談は成立した。この女の囲う娘は更に西に行った、林の中の小屋にいた。
「うちの姫を一晩、どう扱っても勝手だがね、使いものにならないような真似だけは止しとくれよ」
琵琶の弦が爪弾かれると、小屋の中からか細い声が聞こえてきた。
「御客様ですか」
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