比叡山の暗い森の中、彩子を連れた貞光は少し開けた所で火をおこした。
彩子をおぶって、大津から逃げた貞光は彩子の身体の霞の様な軽さに驚いた。自分自身の怠慢が彩子に辛い思いをさせたのだと、後悔しても既に遅すぎた。
貞光の目が、炎に照らされた彩子の脚の傷を見る。白い肌が美しいだけに、肉の盛り上がった無惨な傷は痛々しい。
売られてからしばらくの間、彩子は何度も逃げようと試みたらしい。結果、両足の腱を切られてしまい、今ではまともに歩くことすらおぼつかない。
小さな炎では防ぎようのない夜の冷気が忍び寄る。暖め合うように寄り添う二人は、この刹那こそが永遠であればと願った。
 「気持ちいいね…深く吸い込むと、身体の中が綺麗になっていくみたい」
つっ、と彩子の頬に一筋の涙がこぼれた。自分の身体が汚れてしまった事が、こんなにも哀しいのは、兄に会えたからだと思う。
 「このまま…暖かな腕の中で死んでしまえたらどんなに幸せかしら」
 「………」
本能という名の、潜在的な死の恐怖さえなければ、恐らく彩子にとって最も望む結末なのであろう。貞光もそれが解るからこそ何も言えないでいた。たとえ貞光自身の望みと彩子の望みが全く異なっていても、だ。
咳き込む彩子の身体を抱き寄せる。自らの体温を全て与えてでも生きて欲しい。辛いだけの生など、一体何の意味があるというのか。腕の中で震える小さな妹が、幸せになってはならない道理などあってたまるものか。自然と彩子を抱く腕に力が入る。
翌朝、再び彩子を背におぶって森をいく貞光は一人の僧に出会った。静延と名乗った僧は、そこに一つだけ設えられた小さな墓に向かって経を唱えていた。
彩子は兄の背から目だけで静延に訴えた。その強い意志は標的である静延を射抜く。
 「急ぎなさい。この世には生きている者にしかできないことがあります。後悔無きように御行きなさい」
貞光の目を真っ直ぐに見つめた静延は静かに告げると、菩薩のような笑みを浮かべた。
 「御坊は後悔された口ですか。その墓標…」
 「まぁ、そのようなものですね。この墓は私の子供が大切にしていた娘のものです。あぁ、子供と言っても本当は弟子なんですけどね」
静延には僧侶独特の威厳や重みはなかったが、何処か引き込まれていく感覚が不思議な男だった。瞳の色がかすかに薄いことなどは取るに足らない事象で、静延から滲み出る魅力の源はもっと裡に秘められていると思えた。
 「この先をいくと道が左右に分かれています。都に出るなら左、鞍馬山の方なら右に行きなさい」
去っていく兄妹の背を見ながら、静延は彩子の覚悟を憐れんだ。墓標の下に眠る楓という名の娘と何処かしらかぶってしまうのは、その強烈なまでの意志を示す瞳のせいばかりではないことが静延には哀しかった。
 「主よ…何故、強く人を想う者ほど、早くに逝ってしまうのでしょうか…。貴方はそれほどまでに我らの魂を試そうというのですか」
本来、彼が信仰している神は何も応えてはくれなかった。
静延に見送られる形でその場を後にした二人は人目を避けるために、敢えて遠回りとなる北の鞍馬山に向かった。
比叡山を下りたその夜、貞光の背で咳き込んだ彩子は血を吐いた。
 「大丈夫…心配しないで。いつものことだから」
彩子の身体は既に病魔に侵され、手の施しようもなくなっていた。静延が急げと言った真意もそこにあった。貞光の肩に広がる血はわずかに黒みがかっていた。
 「もう駄目なの、私」
どうしようもないほどの現実に貞光は打ちひしがれた。気休めも励ましも、事実という名の壁を打ち壊すことなど出来ない。人一人の力など、無力で儚い塵屑のようなものだ。
 (だからといって…)
諦められるはずもなかった。それでは本当にただの負け犬でしかないではないか。
無理をしてでも彩子を碓井の屋敷に連れて帰ってやりたかった。しかし、彩子の体力を考えると既にこれ以上の無理は出来るはずもなかった。
 「兄上、離れないで下さいね。………いつまでも、いつまでも…」
ある夜、横になった彩子は貞光の手を握ると、そう言って眠った。永遠に。
薄らいでいく呼吸は彩子を苦しめることなく終わりを告げた。貞光は冷たくなった彩子の手を幾日も離すことが出来なかった。涙など、本当の悲しみの前では流れないことを貞光は知った。
 「…帰ろう。俺達の家に」
既に魂のない彩子を背負い、貞光は昼夜を問わず歩き続けた。
少しずつ暑さを増していく夏の日差しは、貞光の背から腐臭を漂わせる結果を招いたが、それでも黙々とただ歩き続けた。懐かしき碓井の屋敷を目指して。


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