二度と潜ること無いと信じていた門を通り、貞光は母屋へと向かった。
 「父上っ、貞光と彩子が帰ってきたぞっ」
今となっては真実を問い質さずにはいられない。何故、彩子は死なねばならなかったのか、その真実を。
使役人達は嫡男の帰還を驚きの面持ちで見つめた。しかも、その背の唐衣から垂れ下がっている腕は死人の色をしているではないか。
 「何事ですか、騒々しい。貞光、その汚らしい形を何とかなさい」
品子は貞光を見ても、別段驚くことなく振る舞った。使役達を散らせると姿を消した。
 「…女狐め」
貞光の頭の中には未だに、品子さえ碓井に来なければという思いがあった。
父・道貞が姿を現さないのは狩りにでも出ているからであろうか。貞光は非礼と知りつつも家長の許に赴いた。

母屋からは三年前同様、あの異臭を放つ香が焚かれていた。
御簾を跳ね除け分け入った中に、而して道貞の姿はあった。やつれ、濁った目は道貞の面影を多分に持ち合わせた老人の身体に張り付いていた。
 「…父上なのか」
 「誰じゃ、御前は…」
呂律の回らぬ声も確かに聞き覚えのあるものだった。
目の前の枯れ枝のような老人は真実、碓井道貞その人である。おぞましさが貞光の心臓を絡め取り、思わず後ずさってしまう。
 「おぉ、康道か…近う寄れ」
品子の産んだ末弟はまだ三歳かそこらで、貞光と見間違えるはずもなかった。道貞は狂っていた。
 「あぁぁぁーーーーーーーーぁぁっっっっ」
獣のような咆吼をあげる以外に貞光に何が出来たというのか。怒り、哀しみ、憤り、様々な暗い感情が、行き場のない濁流となって貞光の裡を駆けめぐった。
 「何故だっ。何故、父上は…っ」
一度として抜くことの無かった太刀が閃いた。貞光は身体ごと道貞に飛び込んでいった。
 「よう帰ってきたのぉ、康道や」
鳩尾を貫いた刃を引き上げると、あまり抵抗もなく道貞の身体は両断された。大量の返り血が貞光を朱色に染め、鬼のようだった。
始めて人を殺した。肉と骨を断つ感触が両手に深く刻まれている。
 「貞光、こちらにいらっしゃい」
一部始終を見ていた品子は落ち着いた声で貞光を招いた。
品子の声は聞こえていたが、身体が異常な興奮状態に陥り、思うとおり動かすことが出来なかった。
品子は貞光の前に回り込むと、遠慮のない平手を打ち付けた。
 「狼狽えるでないっ。それでも御前は碓井の嫡男か」
太刀を取り落としそうになった貞光は何とか取り戻した自我で、残された数少ない大切なものを失わずに済んだ。先を行く品子を追い、貞光は北の対に向かった。
 「お座りなさい」
赤く濡れた太刀をものともせず、品子は静かに促した。もとより、今の貞光にその様な力はなく、傀儡のように言いなりであった。
 「薄々は気付いているのでしょう。康道はまだ姉上、つまり御前の母が亡くなる前に出来た子。私と道貞殿が密通を交わして出来た子だということに」
品子は、抑揚のない口調で貞光の求める真実を語った。
道貞の心は綾絹のように繊細であったこと。故に芥子に狂ったこと。弟妹を売った見返りに大量の芥子を求めたこと。貞光が去った後、何も出来ない見窄らしい廃人となり果てたこと。
 「だから許せというのか。…彩子がどんな思いをしたのかを忘れて、全てを許せというのかっ」
噛み締めた奥歯が嫌な音をたてて砕けた。
 「確かに、許されることではありません。…それでも私は道貞殿を愛しておりましたのよ」
血の繋がりは無いとはいえ、息子の前で母として毅然とした態度を取り続けようとした品子だったが、ついに涙を堪えることは出来なかった。
姉を裏切り、想いを遂げた品子はしかし、罪の意識に苛まれ壊れていく道貞を見続けなければならなかった。最後の最後まで品子は昌子に勝てなかったと宣告され続ける苦痛と共に。
貞光は品子という人物を全く理解していなかったと、今更ながらに思い知らされた。


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